蛸の目

 鏡を見ると、左目に変な物が入っていました。
たこの目を代わりに入れました」彼はそう言いました。

 私はピロポロの選手なのですが、先日事故で左目にひどい傷を負ってしまいました。左目を失う事は免れ得ず、選手生命もこれで終わりかと嘆いていた折、知人のつてで、眼球細胞を培養して修復する事ができるという学者を紹介してもらったのです。
 この日は左目を、その四月朔日ワタヌキ某という学者に預ける為に摘出してもらうところでした。

 私は彼を問い詰めました。
「左目の視神経を使わないままだと、目を戻した後また慣れるのに大変ですから」と答える彼。
「だからってなぜ蛸の目などを」
「網膜や角膜の構造が人の目によく似ているんですよ、蛸の目は。あいにく今人の目のスペアが無いもので」
(じゃ、いつならあるんだ)などと思いましたが、結局彼に左目を治してもらうにはこうするしかないのかと観念しました。とにかく蛸の左目でも物を見る事はできたので、彼の腕は確かかと思われました。
「一箇月後には左目は元通りになるでしょう。ちなみにこれがその目の蛸です」
 彼は傍らの水槽を指し示しました。虚ろな片目の蛸がいました。それを見る私の左目も虚ろだった事でしょう。

 蛸の目は見る物に焦点を合わせる方法が人の目と違うそうで、左目の使い方に慣れるのには少々時間がかかりましたが、そのうち試合するのにも支障が無くなりました。異様な瞳を隠す為にサングラスは欠かせませんでしたが。
 夜寝ると海の夢をよく見たような気がします。それは海底で暮していた時の、蛸の棲家の風景だったのかもしれません。

 一箇月後、四月朔日氏から左目が治ったとの連絡がありました。しかし試合で忙しかった為、彼の許を訪ねたのは更に一週間後でした。
 いよいよ左目を元に戻してもらおうという時、四月朔日氏は蛸の水槽を手術室に運んできました。
「なぜまた蛸を?」私の問いに、彼は黙って蛸を指し示しました。
 私は蛸を見ました。片目だった筈の蛸の左目には、人の目が、いや私の目が入っていたのです。その目がじろりとこちらを向きます。
 私の蛸の目と蛸の私の目が合いました。
「蛸もいつまでも片目では可哀相なので」四月朔日氏がそんな事を言いました。

 何はともあれ私は左目を取り戻しました。
 しかし夢で見たあの海の景色がどうにも忘れられず、件の蛸と共に今こうして海底を訪れているのです。






 ……久し振りの海水浴でした。■

北村曉 kits@akatsukinishisu.net